⑫〈形態〉


『Kazunari Hattori at Gallery 5610』「ケーキのポスター」(Gallery 5610/2007)

ゲシュタルト崩壊グラフィック
「既存のグラフィックから逃れられているか?」を意識し続ける服部。最初は、ライトパブリシティのグラフィックから逃れようとしただろう。次に、時々の時代のグラフィックから逃れようとし、今は〈形態=有り様〉そのものから逃れようとしているのではないだろうか。
服部の強引とも言える配置は、テキスト、タイポグラフィー、写真、図形、それぞれのエレメントが本来持つ〈形態=有り様〉を奪う。〈形態=有り様〉を失ったエレメントは、置かれた位置、大きさ、他のエレメントとの関係などによって新たな〈形態=あり様〉を与えられる。
形態が崩壊し別の意味が与えられる。これを「ゲシュタルト崩壊グラフィック」と名付けた。
以下に、中平卓馬写真のゲシュタルト崩壊について書かれた論考の一部を抜粋した。同じとは言わないが、服部の「ゲシュタルト崩壊グラフィック」に当てはめて読むとおもしろい。

「事物が事物としてそこにありながら、全体性が解体され、部分が断片に変容し、意味が失効していくような瞬間を待っている。(中略)知らないもの。得体の知れないもの。つんとして、ごろりとして、どかんと、ぐしゃりと、ひゅっと、ある。(中略)たしかに壊れゆく感覚があるが、退廃的な悦びはない。野蛮に快活である。意味は後退するが事物はそこにあり、むしろ迫りだす。事物たちが暴力的なまでに潜在させていた姿をさらして、迫り出す。名前は聞こえないが無音でなく、むしろうるさい。音と認めていなかったものが一斉にざわめいて、うるさい。関係は希薄になるが心細くなく、むしろ興奮する。ほどけながら組成をはじめる予兆に、興奮する。崩壊感覚とともに濃密な圧力で眼が押される。」
──『中平卓馬 一〇〇〇』(一〇〇〇文庫/2013) 五所純子論考より──

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