①〈フォント〉

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『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』(金沢21世紀美術館/2011)

[MSゴシック]
服部は[Futura]と[中ゴシック]を多用する。どちらも一般的な書体で、書体選定としてはごくごく普通と言える。
『New Documentary』『拡張するファッション』でメインコピーに選ばれた書体は[MSゴシック]。Windowsのモニタ表示用に開発されたこの書体は、グリフやカーニングの完成度が低く、印刷物に使われることを念頭に置いていないフォントだ。
「これくらいの悪しきモノを扱えないとダメだなと思って」
「字間と行間でどうにでもコントロールできる」
「書体はどうでもイイちゃイイ」(服部)
この考え方は、[Futura]や[中ゴシック]にも当てはまるのではないだろうか。
服部の書体選択からは、好きな書体であるとか、書体そのものへのこだわりとか、デザイントーンやツールの目的に合わせて、といった形跡は見られない。印刷や用紙とおなじく、当たり前のものを当たり前に使い度肝を抜く、服部の基本姿勢は書体設定にも色濃く現れている。

②〈フォント〉

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『TAKEO DESK DIARY 2006』(株式会社竹尾/2005) 写真右

『TAKEO DESK DIARY 2006』
野球チームのロゴ、写真集のタイトル、レコジャケのタイポグラフィなど様々なタイポグラフィーからグリフをひとつ抜き出しレタリングする。そのレタリングをメインビジュアルとし、ABCブック形式で並べた卓上ダイアリーが『TAKEO DESK DIARY 2006』だ。レタリングはすべて原寸で描かれており、鉛筆、マーカー、アクリルなど、多様な描画方法を用いている。
ロゴの一部を抜き出すというこの方法は、写真を極端にトリミングしたときのフレーミング効果があり、A〜Zのグリフが元々備えているキャラクターの魅力を強力に押し出す。
この本で服部が扱っているモチーフはグリフなわけだが、そのグリフはロゴからトリミングされたひとつの図形として扱われており、その図形から原型のロゴやその背景を想像させるようなつくりになっている。この本の本当のモチーフはグリフそのものではなく、〈形態〉としてのフォントやロゴなのではないだろうか。

③〈タイポグラフィー〉

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「本文組のうまい人はたくさんいるんで誰かがキレイにやってくれればいいなぁ〜くらいに思っている」(服部)

図形としての文字
フォントそのものに興味がないように、タイポグラフィーについても服部の口数は少ない。『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』(金沢21世紀美術館/2011)のタイトルや『ドイツ写真の現在』B1ポスター(水戸芸術館/2005)や『ADC年鑑』(美術出版社/20XX)の表紙が、強烈で独特なタイポグラフィーであるにも関わらずだ。
「文字も図形として扱っているように感じる」(松本)
「それはあるかもしれない。可読性とかもあまり重視していないし」(服部)
服部のグラフィックを見ていると、図形、フォント、写真といったエレメントの意味が疑わしくなることがある。エレメントという枠組みが一旦取払われ、グリフという図形、タイポグラフィーという図形、写真という図形、さらには言葉の意味までもが図形に置き換えられ、その上でしかるべきところに置かれる。言い換えると、そうでなければ置けない場所に置かれている。混ぜこぜにされた配置の後、エレメントが本来の枠組みに戻され、遺伝子組み換えのような違和感が残る。
一般的には「文字を組む」と言うが、服部のそれは「文字を置く」という言い方が似合う。

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「ADC年鑑のタイポグラフィーの感覚は、モビールでバランスをとるのと似ている」(服部)

④〈グリッド〉

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『here and there』(nieves/2002-2016)

ノーグリッド
「グリッドは一度も使ったことがない」(服部)
いきなり衝撃発言が飛び出す。
『here and there』(nieves/2002-2016)のような、まるまる雑誌一冊の設計でもグリッドは使わない。版面は一応は設定するが、それも無視してデザインすることが多いという。
雑誌デザインは時間との戦いでもある。多くのデザイナーはグリッドレイアウトを使うことででスピードを稼ぎ、一冊の統一感を担保するのだが、確かに、下手にグリッドに縛られるより、見た目と感覚でポンポン決められるノーグリッドという方法には別の魅力がある。服部の大胆なデザインはノーグリッドだからこそ生まれるとも言える。
注意点としては、グリッドを使わずにページ物の統一感と強度を得るには、音楽で言うところの「絶対音感」のような能力が必要になるということだろう。仮に「絶対形感」と名付けてみる。

⑤〈グリッド〉

制限
服部は自分のデザインに「平面だけで勝負する」というルールをもうけているのではないか。立体性、空間性(大抵は装飾も)はほぼ排除されている。
グリッドは基準であり制限でもある。グリッドを使わない服部にとって、「平面だけで勝負する」というルールは、グリッドに取って代わる基準と制限の役割をはたしているのかもしれない。
既存のルールではなく、自らの制限が服部のグラフィックのルールとして機能しているとすれば、「一目で服部とわかる」が少しわかる気がする。

⑥〈印刷〉

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〈印刷〉というTagに該当作が思い当たらず、しかたなく選んだ『服部一成カレンダー』(平凡社/2012)

ふつうの印刷
「通常4Cプロセスが好き。特殊印刷はできるだけしたくない」
「印刷に助けられることはもちろんあるし、見とれるような印刷物や使いたいと思う印刷方法もたくさんあるけど、その前に勝負をつけておきたい」
「印刷に限らず、新しい技術から生まれるデザインにも当然惹かれるし、そういうこともやらないとダメだという思いもあるけど、今はシンプルに作っている」
「色校はちゃんと見るけど、印刷は印刷所がするもの」
「できるだけシンプルな方法で良いモノを作るのがカッコいいということをライトパブリシティーで細谷巖氏に教わった」(服部)

⑧〈用紙〉

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『横山裕一 ルーム』横山裕一(ハモニカブックス/2013)

アタリと仕上
著者の横山裕一から「ザラザラの紙でコンビニで売ってる安い漫画みたいにしたい」と依頼される。
「横山裕一の本なら、逆の質感が良いのではないか」と考え、ぺらぺらのアート紙の造本を提案した。
服部にはめずらしく用紙セレクトが際立つ造本であるが、服部のグラフィックであることは一目でわかる仕上りになっている。
服部は「アタリと仕上げ」の感覚がいい。仕事に手を付ける初期の段階で、こんなカンジ(もしくはこんなカンジにしたらダメ)というアタリ感と、その判断を制作過程のさまざまな要因に引っ張られずに最終形態までブレることなく仕上げる能力だ。
ぺらぺらアート紙を綴じることで生まれるヌメリ具合や、本来あってはならないレベルの激しい裏写りなど、それ単体では悪しきモノとされる要因の〝使い道〟を、制作過程を通してしっかり見分け仕上げに反映させる。

⑨〈製本〉

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『見続ける涯に火が…【批評集成1965-1977】』中平卓馬(OSIRIS/2007) 見返しからはじまる口絵

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ジャケットをはずすと見返しの口絵図版と同版面の写真がポンと置かれている

ふつうの造本
服部の手がける造本は、並製本やシンプルな上製本が多い。印刷方法や用紙選定と同じく、造本もできるだけ特殊な手法/工法には頼らないという姿勢が現れている。
『見続ける涯に火が…』は服部の「アタリと仕上げ」の能力が、『横山裕一 ルーム』とは別のかたちで現れている。
『見続ける涯に火が…』の造本は、上製本の表紙と見返しに同じアート紙を選択し、ジャケット(一般にはカバーと呼ばれているがジャケットが正式名称)には同じアート紙にニス引きが施される。ここまではごく普通の設計だが、口絵の置き方がヤバい(正しくは、口絵の置き方のための造本設計がヤバい)。口絵は本文折の前に別丁を差し込み図版を印刷するのが一般的は方法だが、この本では表2の見返しから口絵が始まる(正しくは、表紙から口絵が始まっている)。ニス引きされたジャケットを開くと、光沢ある見返しの口絵が目に飛び込む。見返しから始まる口絵、それだけでも発明と言えるが、ニス引きアリ無しの落差という念入りのデザインが、この発明を加速させる。
この造本は、中平卓馬の60〜70年代の文章に07年の写真を添えるという、難しい編集意図への服部の解だ。
「病気をして文章は書けなくなったけど、70年代に文章で示していた概念を、00年代には写真でやってみせた中平さん。そこから着想したもの」(服部)
お見事。

⑩〈写真〉

図形としての写真
服部は写真を撮る。
「一時期、カメラは一つの画材だった」
「写真のアンコントローラブルな要因が無意識な〈形態=ゲシュタルト〉をアシストしてくれる」
「PCでも、モニタにたまたま現れた予期せぬフォルムからデザインが生まれることがある。むちゃむちゃな線を引いたりもする」(服部)
文字を図形のように扱うのと同じように、写真も図形として扱っていることが伺える話だ。さらに言えば、文字、写真、図形、の境界が溶けあっているようにも感じる。
服部がグラフィックエレメントとしての写真をどのように扱っているのかを、この勉強会の資料から読み取ってみる。
以下、大きく4つに分類してみた。

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『CREAM』(Cream magazine/2005)
1)デザインとしての写真
『CREAM』のマクドナルド、コカ・コーラ、スヌーピー、スターウォーズは、写真単体でデザインが完結している。カメラ=画材のわかりやすい例だ。紙面やモニタでデザインするのではなく、撮影段階から明快な誌面イメージがある。ファインダ越しでデザインを行うこの方法自体は、服部の専売特許というわけではない。特出すべきは、紙面デザインとファインダー越しのデザインが、ほぼ同等の感覚で操られているところだろう。

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『BETWEEN A AND B』服部一成(Hattori Kazunari Inc./2002
2)図形としての写真
『BETWEEN A AND B』に掲載された写真はすべて服部の撮影によるものだ。『CREAM』も服部の撮影だが、『BETWEEN A AND B』はデザインとしてでなく写真素材として撮影されている。
『ドイツ現代写真展』ポスターに使われたトーマス・デマンドの写真は、もちろん「写真」として扱われているが、同時に「図形」としても扱われている。シンプルに置かれたタイポグラフィー/写真/余白といったエレメントが押し引きするような関係で置かれ、写真としての役割もちゃんと果たしている。一般的に言われる「写真をいかす」とは根本的に異なる写真の扱いがあるように見える。

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『流行通信』(INFAS/2002)の瀧本幹也
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『真夜中』(Littlemore/2008)
3)スタイリスト服部の写真
『真夜中』高橋恭司の「SF」、『流行通信』瀧本幹也の「化粧品」。これらの物撮り写真の被写体配置は服部の手によるものだ。服部のグラフィックエレメントを置くようなデザインを、撮影という印刷方法に置き換えて再現しているようにも見える。服部の「配置力」が効果的に発揮される方法だ。

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右)『Circulation』中平卓馬(OSIRIS/2012) 左『EVER AFTER』楢橋朝子(OSIRIS/2013)
4)写真としての写真
中平卓馬、楢橋朝子など写真集につかわれる写真は、さすがに「写真」として扱われている(1〜3がまったく写真として扱われていないということではない)。