③〈タイポグラフィー〉

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「本文組のうまい人はたくさんいるんで誰かがキレイにやってくれればいいなぁ〜くらいに思っている」(服部)

図形としての文字
フォントそのものに興味がないように、タイポグラフィーについても服部の口数は少ない。『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』(金沢21世紀美術館/2011)のタイトルや『ドイツ写真の現在』B1ポスター(水戸芸術館/2005)や『ADC年鑑』(美術出版社/20XX)の表紙が、強烈で独特なタイポグラフィーであるにも関わらずだ。
「文字も図形として扱っているように感じる」(松本)
「それはあるかもしれない。可読性とかもあまり重視していないし」(服部)
服部のグラフィックを見ていると、図形、フォント、写真といったエレメントの意味が疑わしくなることがある。エレメントという枠組みが一旦取払われ、グリフという図形、タイポグラフィーという図形、写真という図形、さらには言葉の意味までもが図形に置き換えられ、その上でしかるべきところに置かれる。言い換えると、そうでなければ置けない場所に置かれている。混ぜこぜにされた配置の後、エレメントが本来の枠組みに戻され、遺伝子組み換えのような違和感が残る。
一般的には「文字を組む」と言うが、服部のそれは「文字を置く」という言い方が似合う。

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「ADC年鑑のタイポグラフィーの感覚は、モビールでバランスをとるのと似ている」(服部)

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