⑧〈非デザイナー系〉

原宿を庭がわりに育った長谷川は、1990年、ロンドンのアートスクールに留学する。押しの強い外国人に囲まれた日本人は、さまざまなプロジェクトの現場で隅に追いやられやすいという。長谷川は、すべてを一人でコントロールできるプログラムによる表現方法に可能性を見いだし、Lingoなどのプログラム言語を独学で習得する。在学中に制作したプログラム作品がTOMATOのメンバーの目にとまり、長谷川はTOMATOのオフィスに出入りしはじめる。
卒業後、帰国した長谷川はSonyに入社する。配属されたのは直接的な商品開発ではなく、実験的な研究開発をする部署だった。自分の仕事が数年たっても発表されない不満を抱えていたところに、TOMATOと再会。長谷川はSonyを退社する。ふたたびロンドンに渡ると、「TOMATO所属のアーティスト長谷川踏太」として本格的な活動をはじめる。
2010年の一時帰国中、W+K Tokyoのランチトークに呼ばれた長谷川。その数ヶ月後に突如かかってきた電話で、W+K Tokyo取締役のオファーを受ける。
「ランチを100回重ねても、社長のオファーなんてオレには来ない」(松本、町口覚)
「絵が描けるデザイナー」に代理店やエージェンシーの代表は務まらない。長谷川のような〈非デザイナー系〉こそ、団体の長として適役である。誤解を恐れずにいえば、すでに社会構造として、「絵が描けるデザイナー」の多くは〈非デザイナー系〉の下請け的存在に成り下がった。80年代にイラストレーションブームが去った後、多くのイラストレーターが職能性を省みられることなく「ああ、絵のうまい人ね」程度の扱いを受けたのを思い出す。それと同じ立場に、いまデザイナーが置かれつつあるのではないか。
デザイナーたち自身が「絵がうまい」ことに車座であぐらをかいている間に、グラフィックデザインという「特区」に他業種の職能が介入し、「特区」はその意味を失っていったのだ。
いま、〈非デザイナー系〉の延長上にデザインエンジニアやプログラマーがある。人工知能デザインがaiやinddに実装されたら、グラフィックデザインがデザインの称号を返上することになるだろう。

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