次のデザイナー
非デザイナーとは「DeSs」の造語だ。
・「直接的にはデザインやアートディレクションをしない人」
・「グラフィック的能力以外でデザインする人」
デザインという言葉が広義に使われる現在、グラフィックデザイナーがデザインという呼称を占有していることにもはや違和感がある。いっそズアンナーなど別の呼び名をつくったほうがデザイン界隈を整理できる気がしつつ、この講義では仮構として、長谷川に〈非デザイナー系〉の役をつとめてもらった。
〈非デザイナー系〉の表現からは、「集合知」「一周した既視感」「ツルっとした仕上がり」といった印象を受けることが多い。確かに、広告にあたらしい表現を必要としていない今の時代にはほどよいクリエイティブなのだろう。また、半歩先を模索するのが表現ではないかと思う反面、長谷川の言う「個人の能力を継承したチームから生まれるアイデア」「『FF』のルールは民意で改良されていく」という言葉にあたらしい表現形態が生まれる可能性も感じる。
DeSs第2回で新たに加えられたtag〈非デザイナー〉については、今後もさまざまな角度から掘り下げていきたい。
タグ別アーカイブ: 非デザイナー系
⑦〈非デザイナー系〉
「文化屋雑貨店」の商品
長谷川踏太
長谷川の父は文化屋雑貨店のオーナーだ。文化屋雑貨店は2015年、東京中のスタイリストと全国の修学旅行生に惜しまれつつ、40年の歴史に幕を閉じた。
グラフィックデザイナーだった父は、自分よりセンスのないデザイナーが作る商品を指して「それ、デザインされてるな」と言うのが口癖だった。長谷川家において「デザインされてる」は皮肉であり、長谷川は反デザインの家風に育ったのだ。70年代、モダニズムとポストモダンの狭間の時代に、家庭の内外には花柄の炊飯ジャーや目的が崩壊したオブジェが一緒くたとなって混沌としていた。長谷川の父は、時のデザインを睨みつつ、反デザイン的内圧を放出するように商品をつくり、それがひとつのメディアとなるような店を1974年にオープンした。文化屋雑貨店は反デザインの実践として存在したのかもしれない。デザイン地誌的に言えば、当時の原宿は、新宿の文化服装学院と渋谷の桑沢デザイン研究所の中間に位置するちっぽけな町だった。そんな原宿に、グラフィックとファッションを志す若者が集まりはじめたのが80年代。文化屋雑貨店は、モンクベリーズ、セントラルアパート、ラフォーレなどと肩を並べるオピニオンとして育っていた。
⑧〈非デザイナー系〉
原宿を庭がわりに育った長谷川は、1990年、ロンドンのアートスクールに留学する。押しの強い外国人に囲まれた日本人は、さまざまなプロジェクトの現場で隅に追いやられやすいという。長谷川は、すべてを一人でコントロールできるプログラムによる表現方法に可能性を見いだし、Lingoなどのプログラム言語を独学で習得する。在学中に制作したプログラム作品がTOMATOのメンバーの目にとまり、長谷川はTOMATOのオフィスに出入りしはじめる。
卒業後、帰国した長谷川はSonyに入社する。配属されたのは直接的な商品開発ではなく、実験的な研究開発をする部署だった。自分の仕事が数年たっても発表されない不満を抱えていたところに、TOMATOと再会。長谷川はSonyを退社する。ふたたびロンドンに渡ると、「TOMATO所属のアーティスト長谷川踏太」として本格的な活動をはじめる。
2010年の一時帰国中、W+K Tokyoのランチトークに呼ばれた長谷川。その数ヶ月後に突如かかってきた電話で、W+K Tokyo取締役のオファーを受ける。
「ランチを100回重ねても、社長のオファーなんてオレには来ない」(松本、町口覚)
「絵が描けるデザイナー」に代理店やエージェンシーの代表は務まらない。長谷川のような〈非デザイナー系〉こそ、団体の長として適役である。誤解を恐れずにいえば、すでに社会構造として、「絵が描けるデザイナー」の多くは〈非デザイナー系〉の下請け的存在に成り下がった。80年代にイラストレーションブームが去った後、多くのイラストレーターが職能性を省みられることなく「ああ、絵のうまい人ね」程度の扱いを受けたのを思い出す。それと同じ立場に、いまデザイナーが置かれつつあるのではないか。
デザイナーたち自身が「絵がうまい」ことに車座であぐらをかいている間に、グラフィックデザインという「特区」に他業種の職能が介入し、「特区」はその意味を失っていったのだ。
いま、〈非デザイナー系〉の延長上にデザインエンジニアやプログラマーがある。人工知能デザインがaiやinddに実装されたら、グラフィックデザインがデザインの称号を返上することになるだろう。